播但線

播但線は最も身近なSL路線だったので何度か行った。
当時は、姫路寺前間の客車を姫路第二機関区のC11が、姫路-和田山通しの客車と貨物を豊岡機関区のC57が牽いていた。当時の姫路駅はSLの一大拠点で機関区が駅の西と東に2つあり、播但線を担う第二機関区には転車台と大きな扇形車庫があった。山陽本線のホームには、たくさんの特急列車や急行列車が発着し、旅情あふれる佇まいがあった。駅の東には巨大な貨物ヤードもあり、まだ鉄道が輸送の主役だった。

2021年現在では、姫路駅は無個性な高架になり、もちろん2つの機関区も跡地利用で建物が建ち並びかつての面影はまったくない。輸送がコンテナ化したことによって貨物ヤードも規模を縮小してとなり駅に移り、広大な跡地にはマンションや商業施設が建ち並ぶ。
新幹線が発達し、在来線は基本的に通勤通学の近郊列車のみで、かろうじて播但線を経由する「はまかぜ」と、上郡から智頭急行に乗り入れる特急の2種類が停まるだけで、かつてのような旅情はかけらもない。半世紀も経てば当たり前と言えば当たり前なのだ。播但線も2つ向こうの駅から高架化され、周囲も変貌している。

播但線には、溝口付近と生野付近の2ヶ所の鉄道写真ポイントがあったが、最後のC57まで生野には行けていなかった。理由は忘れたが、中学生には遠かったのかも知れないし、C11の列車がいない分列車本数も少なかったのでコスパが悪かったのかも知れない。今となっては後悔するばかり。

当時は神戸からの始発電車を姫路で乗り換え、播但線のディーゼルカーで溝口へ向かう途中、SLが牽く列車と3回離合するのであった。最初はC11(野崎だったかな?)、次がC57(砥堀?)、そして溝口でもC11の列車と行き違う。それだげで中坊の鉄度ファンには大興奮なのだった。家族で城崎旅行に行った際にも、播但線を通ったのでSL列車と行き違いをする度にテンションが上がった(笑)

ちなみに、神戸から姫路に行く一番電車では、ちょうど加古川に着く前に、タイミング良く高砂線の築堤を加古川のC11が牽く貨物列車が通るのに遭遇するのだった。築堤の下を山陽本線がくぐり抜けるので撮影することは出来ず悔しい思いをしていた。また、途中の加古川には加古川用のC12もいて、姫路からの帰りの車窓からでも見えたのだった。

溝口駅を降りると線路西側、山手の田んぼの道を福崎方面に向かって歩く。途中からは、線路脇を歩いて、2019年現在でも存在する池の横にあった保線小屋のあたりに着く。そこから、福崎まで歩きながら撮影したりもした。
当時は、ダイヤについての詳しい情報もなく、旅客列車は時刻表にSLのマークがついていたが、貨物列車は分からなかった。歩いていると突如列車がやって来たりして慌てて撮るみたいなこともあった。ただ、SLの場合は汽笛やドラフトや何らか音がするので察知できた。

今(令和2年)は、線路脇を歩いていると通報されるかも知れないが、昔は全然平気だった。機関区内も事務所で名前を住所を書けば、中学生だけでも自由に撮影させてくれた。大らかな時代だった。機関区ではアッシュピットの中や運転台、ナンバープレートの拓本を採るために前面のステップに上がっても怒られなかった。今からは考えられない大らかさだ。

当時、神戸の中古カメラ店で、庶民の中学生のお小遣いで何とか安く買ったCOWAというメーカーの一眼レフを使っていたが、これがレンズ交換はできないカメラで標準の50mmでしか撮れなかった。しかし、ピント合わせなど(当時はもちろんAFなどない)中学生にも使いやすく活躍した。ちなみにカラーは当時流行していたハーフサイズのカメラで撮っていた。とにかく、中学生にとってはフィルム代、プリント代もばかにならなかった。もちろん運賃も。だから、頻繁には撮影に行けなかったと思う。
この頃の写真は、撮影の仕方も雑だし(笑)フィルムの保存状態も悪い。
※一部、和田山-豊岡間の山陰本線や豊岡機関区のものもあり。


<姫路>

*近年の播但線(別サイト)