<布原の3重連>
昭和45年頃、SLブームが起こり鉄橋を爆走する「布原の3重連」がにわかに脚光を浴びた。確かさくらカラーのキャンペーンのポスターにもなっていた。
この石灰石を運搬する列車は、基本的に重連運転で、時にはそこに回送の機関車がもう1台くっついて3重連になるというものだった。3重連というのは珍しかったし、この鉄橋は布原から上り坂を上がったトンネルの直前にあり、トンネル内では煙を吐かない絶気運転をするために惰力をつけるため、布原を出て猛ダッシュする見事な走りっぷりが見れるので有名になった。一番最初にこの場所を見つけたカメラマンは偉いなあと思う。
夏休み前の土日にここを訪れた。当時中1だった私は子供同士で行くことを許されず、父親が付き添って友人と行った。布原を降りると、もう鉄橋の向こうの山肌にはSLファンの無数の三脚が立ち並び、初めて見る景色に圧倒された。話題の場所に来たのだという実感がした。自分が立つ場所はあるのかと思いつつ鉄橋に向かい、列車が2つ通過するのを待って同じ目的の人達と共に鉄橋を渡った。この頃は、線路脇を歩くことなど当たり前で許されていた。鉄橋は思ったより高くて足下の金網越しに見える高梁川が怖かった。
無事自分たちの場所を確保し、ほどなく布原に列車が着いたのが見えた。まだ時間が合ったので、もう1本前に列車があるのかと思ったら3重連だった。
ここで気動車と行き違いをするのだった。自分が立っている場所からも3両のD51がつながって停車しているのが確認できて、うぉーっ!!って感じでテンションは最高潮に(笑)
やがてトンネルから吐き出された気動車が鉄橋を渡り、布原に着き出て行った。いよいよである。3両の機関車から煙が勢いよく上がり始めた。これでもかというくらいに煙が上がったところで発車の汽笛が3両順番に鳴った。
するとまるでレコードを聴いているかのように、機関車のドラフト音が明瞭に聞こえはじめた。ドラフト音は徐々に早くなり、やがて目の前を3両の機関車が通過し、ガシャガシャというロッドの音とともにトンネルへと吸い込まれていった。結構なスピードで、あっというまに通過した。列車が去ると、あたりには、機関車の煙とめいめいのカメラマンの緊張から解き放たれた空気が漂っていた。
このあと、布原駅から先の方に行き、人に教えてもらった山の上からの写真などを撮って新見駅に行き、機関区へ行くことにした。、
新見機関区には、D51やC58がおり、播但線のC57、C11が身近だった私には新鮮だった。父が一緒だったためか、機関区の人が、あそこに見えるD51 651が「下山事件」の機関車だと教えてくれた。中1の私は「下山事件」を知らなかった(笑)後で調べたが、戦後から日本が復興する過程のどさくさ事件で、振り返ってみると昭和45年というのは、戦後25年”しか”たってないのだった。
”しか”なのか”も”なのかは視点に寄るが、蒸気機関車というのは第二次大戦前後にもっとも活躍した文明だと言っても良いのではないか。蒸気機関車がすべて引退する昭和50年頃に日本の高度成長期も終わりを告げた。小学校の低学年の頃は、神社のお祭りなどでは傷痍軍人の姿が見られた。当時は良く分からなかったが、まさに戦後そのものである。
新見機関区を後にして帰途についたが、途中倉敷駅で通称「門鉄デフ」のD51491と離合して惜しい気持ちになった。岡山駅で帰りの電車まで、伯備線の発車を撮影した。「ひかりは西へ」の山陽新幹線の工事が急ピッチで進められていた。
岡山駅には伯備線、吉備線、津山線の蒸気機関車が乗り入れていた。残念ながら他の線区を見ることができなかった。